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特別鼎談
佐々木 誠造 × 渡辺 利雄 × 細井 仁

産業会館はどのようにして生まれ、
30年を経て財団は何を目指すのか。

青森市産業振興財団設立30周年記念誌制作鼎談会 (2018年10月10日 青森国際ホテル)

村井

その時代の役割と期待を担って、なぜ産業会館を建設することになったのか、そして、歩んだその30年と言うのは、紆余曲折がございました。 一つ、二つ申し上げますと、はまなす会館との合併がございました。 はまなすとの連結決算があったものですから、赤字運営を余儀なくされて、それからの脱出、脱却をですね、今日まで一生懸命やって現在は黒字に持ってきています。 また、もう一つの大きな出来事は、青森市から、平成22年8月に第三セクターと財団が廃止ということを宣言されました。 これを受けた形で、今は一般的な指定管理者として再スタートをして、積極的に産業振興活動をおこなっているところでございます。 その評価はどうだったのか、そして今後40周年、50周年ということで将来に向かって、当財団として、また、産業会館、はまなす会館の今日ある、市民から愛され、利用され続けていくためには、どのような方針で進んでいくべきなのか、財団設立30周年にあたり、ぜひとも先生方にお伺いしたいと思っているところであります。 進行と取りまとめは、青森大学客員教授の帆江先生にお願い致します。

産業会館を
なぜ卸団地の中に

細井「自費でドイツ視察した後藤副会頭」

佐々木「公設民営でのスタートは県内初」

渡辺「適時適格な判断だった南進移動」

帆江

まず細井さんから、なぜ卸団地に産業会館が必要とされ、できあがったのか、というところから口火を切っていただけませんか。

細井

青森産業会館建設の経緯、その評価ということなんですが、当時の青森市は卸業者が散在して商売をしていたんです。 経済の成長とともに家屋、あるいはバックヤードの倉庫の拡張ができない、とともにモータリゼーションの発達で、かなり交通規制が厳しくなりましてね、思い切って関係者が郊外に集団化したらいいんじゃないかという話が持ち上がっていました。 そういう高邁な構想の元に、当時、商工会議所の副会頭であった後藤栄一郎さんがドイツのハンブルグに自費でもって調査に行ったんですね。 で、帰ってきて報告して、将来は鉄道だけに頼ることなくして、高速道路だと、しかも、インターチェンジのそばに必要だと、いうようなことを打ち出したんですよ。 で、全国の卸団地はそれぞれの中に立派な展示場を持っておったんですね。 私も視察に行きましたけども、ぜひ青森にも多目的なそういうホールが欲しいと、つまり卸業者ですから見本市をやりたいんですね。 そういうホールを何とか市の方で建設できないものだろうかと、その際に佐々木さんの直前の市長さん、工藤正市長がね、南さんという部長いたでしよう、南昌さんね。 あの方と私、呼ばれましてね、「そういう必要があれば官立民営、官で建てるけれども民で運営してくれないか」と。 そこで商工会議所はですね、財団法人をつくって業界の浄財、5000万円は基本財産、これは税金かかるんですね。 それから運用財産1億円、無税の寄付を頂戴して、財団法人を立ち上げたんです。 初代の理事長は後藤栄一郎さん。 そこから順調に始まった経緯があるんですね。

佐々木

あれは確かね、昭和43年の市制施行90周年、その記念事業として位置づけようということで、工藤正さんが予算を付けたんですよ。 「全部、市が予算をつけます。 運営は財団法人でやってください」ということで、公設民営の形をとった。 こういうスタート、初めてですよね。 で、工藤さん、建設費全部出して、民営の方にも経常的なものには全部予算つけて、市で予算化してやった。 それがスタ一卜でしたよね。

細井

そうですね。 で、土地はね、卸センターで提供したんですよ。 「30年問無償で市の方に提供申し上げます。そこに上物を建ててくれませんか」ということで、いま佐々木さんがおっしゃったような、 800坪ですもの。 無柱の、しかも、トラックに荷物を積んでそのまま入れる、東北でもないような多目的ホールなんですよ。 1平方メートルあたり5トンの荷重計算をしている、本当に特殊な施設だろうと思うんですね。

佐々木

大きい車で乗りいれて、10卜ンぐらいのがね、入っても大丈夫な床をつくってね。 それが今、大変生きているんじゃないでしょうかね。どんな催しでも、あそこなら出来る。 だからね、前の市長の工藤正市長のね、一つの大英断ですよ。 ちょうど建設して30周年たって、長年の要望が見本市会場だったが、なかなか実現できなかった。 それが、卸団地で、問屋町で「土地を提供しますから、そこでやってください」と、そういうことで土地をよこした。 「それじゃ、市が予算を出しましょう」といって、全部、市が予算化してつくった。 その財団法人の運営も当初は全部市が予算つける、ということでスタートしたが、できあがったその時に工藤正さんが亡くなった。昭和63年。 で、私が64年、平成元年に市長になった。 ちょうど平成に代わった時に市長になった。 それで、平成2年に完成したんです。 その時に私はテープカットしたんです。だから、前任者が全部やったのに、いいとこだけ私がやったんですよ。そういう記憶ありますよ。 で、あれは川島隆太郎設計事務所が設計したんです。 あの人は、こだわりが強くてね、市の方に「全部任してくれ、デザインも」と言ってできたのがあの会館ですよ。

細井

少し説明しますとね、青森県の事業設計共同組合の理事長をしとったんです。 そっちの方にお任せしたんです。そこで、グループでコンペをして。

帆江

当時、渡辺先生は大学にいて、どういうふうに見ておられたのですか。

渡辺

あの時代にあそこへ移動した、時代の意義、青森という流通の92%は第3次産業でなりたっている商業立市都市の、卸と、それから小売業にものをさばく、この二つの機能を一か所にするということ、集約されるということは、その時代としては、これ以上ない時期に移転したと私は思います。 これがまず第一です。 もう一つは、移った理由は、これからの小売業、あるいは卸売業と小売業の売り上げ を伸ばす、その総元締めが今後の、将来の青森市の販売額を増加させるための拠点としての機能を十分に果たすには、一か所にまとめた形で、最大限の広角レンズで、つまり広い視野に立ってすべてのことをこなすだけの能力のある施設にしなきゃいかんと、そういう意味からあそこに移ったということは、非常に時宜を得た決断でした。

細井

先生ね、時あたかも、国の指針が中小企業振興条例と言うんですか、小売りも卸売りも集団化事業を積極的に進めたんですよ。 小売りの集団化事業というのは、サンロード青森ですよ。 52年にできた。 あれが小売り業者の集団化です。 片や卸業者は、今の問屋町につくった。 国の資金を導入して、いっそう集団化した。 そういう経緯があるんですね。

渡辺

青森市の流通産業に対するすごく大きな希望としてね、国がつくった四全総の中の、東京から北海道までの第二国土軸、仙台と札幌を第二国土軸にして、そのちょうど真ん中に当たる、「青函インターブロック」という構想も出たわけですけど、そこへ弘前と八戸を含めた4市を中心とした広域な圏域、100万都市、それを第三国土軸にしようというものです。 青森市はですね、弘前、八戸、函館を含めたど真ん中にあって、地理的にも経済的にも扇の要です。 一番言いたいのは、人口が減少して、人口減と社会減で都市圏に人口も流れているという、下り坂の人口の流れの中で、卸の方の販売額は減少するという流れが先に向かって見えてる中で、今度は一人あたりの消費額も下がってるという状況の中で、青森市が今までの商圏からもっと100万の商圏で、これは細井君が下北やなんかで今、盛んにイベン卜を仕掛けてやってるのも、やあ良かったなぁ、と感動をおぼえてるんです。 青森が軸になっていろいろな仕掛けをやることによって、商業販売額を拡大する。 その軸になるのが青森市だよ、というそういう意味もあるということです。

細井

当時はね、青森県の卸売りの63%のシェアを持っていた。 青森市がね。 今はずっと下がってしまいましてね。 じゃあ、今、卸団地に何社入っているか。 42社でスタートしたんですよ、組合設立が。 今はね、140社になったそうですよ。 ところが、本当の青森市内の本社、これ40社しかないそうです。 で、県内が30社。あとの70社は県外資本なんです。

佐々木

それとあの時期は、高速交通体系が急激に進むという時期だったんですね。 だから、高速道路もどんどん延伸する。 それから、飛行場がね、ジェット化される。 鉄道は、工藤正さんになってから新駅ね、やっと位置が決まって、新幹線はこれから走ると。 そういう期待に満ちた時期だった。 流通体系も特にトラックが出入りできるような場所でなければ、商売にならないということです。 その時期がね、来つつあったわけだから、あの広い所へみんな行ってね、そこでこう自由にね、物を出し入れするという、あれが大きかったんですよ。 それで問屋町ができた。 問屋町できたけれど、大きな催しをやる見本市会場がない。 で、視察した後藤さんがね、ドイツ見て、やっぱりこれがないとダメだと。 こうなって、今度はそういう発想でね、見本市会場ほしいと、こうなっているでしょ。 それが、とんとんとんと、だからできたんですよ。今思えばあれ、非常に大きい事業でした。

細井

そうですね。 その立役者はやっぱりね、何と言っても私の先輩である、商工会議所から行った田中孝志さん、その方です。 すごいバイタリティがあってね、素晴らしい発想の持ち主だね。

帆江

今、佐々木さんがおっしゃった高速化ということと絡んで、物流の面からみると、青森はものすごく恵まれています。 道路は整備されてきた、新幹線が来た、それから海も、フェリーの物流けっこうありますよね。 空港も市中心部から近い。 そういう意味では、陸海空三つそろっているところって大変珍しいと思うんですけど、そのころ海の視点ってどうだったんですか。

佐々木

フェリーがこんなに発展する前ですからね、当時はまだ連絡船があって、連絡船は貨物輸送できた。 貨車ごと積んでね。 それはねえ、働いていましたね。 昭和63年の青函卜ンネル開設で廃止になったけど、それまでは連絡船が大事な輸送ルートでしたからね。 そういうちょうど変革期でしたよ。 それが、連絡船が廃止になったあのころから、フェリーが頑張ったわけですよ。 いま、もうほとんどフェリーでね、トラックごと積んで。 当時は貨車で輪送ルート、青函連絡船でしたからね。 昭和63年というのは、いろんな意味で変革期だった。 ちょうどそういう時期にできたんですよ。

赤字から脱却、紆余曲折の30年

佐々木「民間からソフト情報の発信を」

帆江

設立当時の経緯とか背景は、その程度にして、出来た後、この30年ということに移ります。 佐々木さん、先ほどお話しました、産業会館オープンのテープカットの時にですね、「立派な器にふさわしいソフ卜の充実が今後の課題である」というふうにおっしゃられていました。 しばらく市長として、施設とか会館を見ておられたと思うんですけど、その間の感想はいかがだったのですか。

佐々木

産業会館ができたのは、ある意味で当時の政治の世界では、確か小泉改革があってね、「官から民へ」という、それが盛んに標榜された時期ですよ。 ちょうどその時期に当たっている。 ですから、これは青森市としてはね、公設民営の初めてのモデルじゃないですかね。 装置は公、運営は民がやる。 公設民営のスタートなんですね。 ちょうどそういう時期にやったということは、意義があったと思いますよね。 そういう中で私がオープンの時からね、思っていたのは、せっかくこういう入れ物ができた、そして、公設民営でできた、今度はそれをソフ卜の部分で知恵出しをして、これからの民間のノウハウを集約することによって、いろんな新しい情報発信をする、ソフ卜の情報発信をする。 官だけではね、なかなかソフ卜の情報発信はできない。 例えば、研究機能を持たせる、そういうものを含めて、どんどん民間で頑張って、官の方に意見具申する。 そして、官がそれに乗っかる。 そういう形で、拠点になってくれればいいんじゃないかと。

細井 「はまなす会館合併し、安定運営へ」

細井

市長が交代した時、財団がいったん廃止になったんですよ。 そういう方向付けにね、打ち出されたんです。 新聞にもでかでか出ました。 で、1億円で売却すると。 しかし、買い手がないんですね。 それ見ろと、私はね、田中孝志さんの遺志を尊重して、なんとしても卸センターをあんたの方で買ってくれと、再三にわたって交渉して、われわれも全面応援するからと。 とうとうあきらめて、市の方でも、じゃもう一回、指定管理者制度に帰るというわけで、再立候補してこれで二回目ですね。 一回は5年なんですけども。 そこで組織替えした際に、市の方に2000万円寄付したんですよ。 思い切って2000万円。 で、一般財団にしまして、公益財団から。 県知事の認可を取って。 だからもう市の方とのかかわりをあまり持ちたくないもんですから、自主事業を積極的に行うことにしたんです。

帆江

いろんな催事、自主事業をなさってますけども、振り返って、 記憶に残る、これはとっても良かったとか、こういうのが大変難しかっ たとか、個別の事業、イベン卜についての思いは?

細井

自主事業というのは、まだ限られているんですよ。 大農林水産祭とかですね、大農林水産祭の事務局、これはいくらですか金額は?

村井

100万円。

細井

こういった若干の収入を得るとかですね、少しでもやっぱり健全にしようという目的の元に、片方のはまなす会館もですね、今はもうほぼ赤字がゼロのような状態になってきましたので、両館合わせますと、非常に安定した運営になってきた、というのが今日なんですね。

渡辺

いやいや、過去30年は本当に細井君中心になって、ご苦労多かった。

帆江

財団の存立の役割というのは、一つには情報発信をする、受け取る、そのことは、結局は気が付けば産業発展につながっていくということですよね。 青森って割と、豊富な原材料を、そのまま外に出しちゃって、よそではそれを利用して儲かっている。

細井

だからこの大農林水産祭やってね、ヤマイシ石川商店さん参加するんですよ。 水産加工でしょ、あそこではね、タラコ、スケ卜ウダラの子を一次加工して、九州に送って、対岸の韓国から唐辛子を仕入れて、明太子で販売する。 一回ご馳走になったら、ものすごくおいしかったもの。 「社長、これ、青森で売ればいいんでないですか」と言ったら、「いや、向こうで商標登録とってしまっているから、逆に向こうからもらっている」と言うわけ。 九州あたりでスケ卜ウダラ取れるわけないんだよね、ほとんどみんなこっちから行っている。

佐々木

あれはね、明太子すごいよ。人気ある。

細井 「利用業者、『衣』から『住』『食』へ」

細井

そういうものがたくさんあるんじゃないですかね。 だからこの大農林水産祭ではね、津軽半島、下北半島の業者が参加してくれるし、対岸の北海道からもかなりの業者が参加しているんですよ。 125ぐらいかな、いま参加しているのは。 だいぶ人気保ってきました。 ま、そこで時代とともに、産業会館を利用してくださる業者も変わってくるんだなぁという感じしましたね。 最初はね、衣食住ということで、衣服関係、呉服ね、地元の問屋町のメンバーの方々の利用多かったんですよ。 それからもう今はゼロですね。 「住」の方に移ってきてます。 「食」もすごいですよ。 冷凍食品、今、すごいんだね。 それと何としても大きいのは自動車関係、中古車の展示即売。

渡辺 「時代の変化に即した運営を」

渡辺

これはやっぱり時代の変化が激しいからね、今までの事業が永遠につづくという考えは持たないで、ソフトの資源でね、新しい時代が展開してきたらね、ぱぁーっとそれに対応できる、身の振り方の速さっていうかな、それもやっぱり財団運営にとってはこれから特に重要だね。

財団の将来展望は

細井「自主事業・共催事業の開拓に力」

渡辺「広域連携で百万都市商圏拡大を」

佐々木「六次産業化をどうするかが課題」

帆江

三つ目のテーマに移ります。 これからのことですけども、細井さんの方で将来展望について考えておられることは?

細井

やっぱり自主事業をもっと開拓していく必要があると。 ただ他力本願で貸すだけが私どもの役目ではないんだと。 収入を考えるならば、やっぱり共催事業であれ、800坪という大きい施設なもんですから、単独で使ってくれるというのは、体力がないとなかなか企業さんもゆるくないです。 だからそれは、合同で、あるいは共催でやってもいいし、単独でできない場合、そういうのもどんどんお世話する必要があるなという感じがしてますね。 だから私どもはやっぱり、きちっと行動すれば、ますます収益が伴うんじゃないかと思ってまして、それとやっぱり利用者の意見を聞かなくてはダメだと。 ユーザー会という、角弘の社長さんが会長なんですけども、今、何社ですか?ユーザー会のメンバーは。

村井

50社です。

細井

50社ですか。 その方々と定期的に懇談会をやったり、意見を聞く会、それから協力会というのをつくって、会館環境を利用者に提供する、そういう二つの大きな団体をつくったんですよ。 片や、はまなす会館では、利用者懇談会と言って、利用する方々の意見を聞きながら、今はもう割り切って自主事業を中心にして、営利を目的にすると。 まぁ、会社ではないのでそんなに極端な収益はないんですけどもね、財団ですからね。 まぁせめて職員、満足に仕事をしてもらうためには、待遇改善もしなくてはダメだということで、思い切ってそういう方向に転換してきたんですよ。

帆江

それで、自主事業に力を入れるとなると、相当にマンパワーが必要になると思うんです。 内部的な研修だとか、人を増やすだとか、要は自主事業をやるための財団内部の整備というか、力を入れなければならない点、そういうのをどのように考えているのですか。

細井

職員の研修にね、外部講師を金をかけてでも呼ぶことをやってますし、幸いにして私と村井副理事長が商工会議所出身なものですから、会議所が全面的にですね、ま、こちらからお願いしているんですけどね、今の事務局長の鳥谷部さんは手弁当で商工会議所から出向してもらっているんですよ。 商工会議所が市にお願いしてつくった以上は、国の資金をですね、補助金を頂戴したり、県のむつ小川原産業振興財団から3年問、毎年300万円ぐらい頂戴してですね、この事業もそうですよ。 (ポスターを指さして)

帆江

渡辺先生、お出しいただいたリポートも見たら、鎌倉からなお、青森のことを良く見ておられる。 で、産業会館、産業振興財団はこれからどういう風にすれば良いとお考えですか。

渡辺

いままた、私なりの勝手な考えを要約してきました。 まずグランドデザインというか、大きく、将来考えられる守備範囲というものを一応、絵に描いてみるという意味で、ここには9項目を挙げてみました。 これは要約版です。 一つは、大きな将来の計画を細井理事長の元で描いてですね。 その中から、客観条件が激しく変化するから、その都度必要に応じてその変化した状況に応じて、カーブを切って行く、ということでよろしいのではなかろうかと。 そういう気がしております。 それを前提に、ここには9項目、大まかに言いますと、青森を軸に、さっきも言ったように一人当たりの消費金額下がってますけれど、青森を中心に弘前、八戸、函館、函館は青函卜ンネルで陸続きになりました。 そして、地理的にも経済的にも青森がど真ん中です。 この図1で描いた百万都市の中心に位置するのが青森であります。 そういう自分の市の置かれているロケーションの素晴らしい魅力をですね、消費者の一人あたりの減少を補うために、広域商圏から販売額を増やしていく、というのがまず第一です。 青森市は商業だけで92%の売り上げです。 つまり、商業がなければ青森市はつぶれます。 そういうですね、偏った商業の生産額の行動を持っている。

細井

今おっしゃった力シスね、日本一の生産量。 一生懸命頑張って、あらゆる商品化して売り出しているんですよ。 そのへん、ちょっとカシスの話を。

渡辺

これは希少価値ですよ。

佐々木

要はね、力シスに何で着目したかと言うと、弘前大学の農学部の教授が海外出張した時に見つけたんですよ。 ブラックカラード、フランス語で力シスね。 それをね、これは気候が青森県にぴったりだと。 冷涼な気候で、熱い所はできない。 フィンランドとかあっちとかね、それからあのニュージーランド、ああいうところがね、できるわけだ。 青森にぴったりだということでね、それを青森市は私が市長になった時に、弘大農学部でその情報を聞いたもんだから、「指導を受けろ」と。 青森で力シスを奨励しよう、というんで苗を分けてもらって、農業指導センターで栽培したのが始まりです。

渡辺

リンゴもね英語では、an apple a day keeps the doctor away と言ってね、一日一つリンゴを食ベれば医者いらずと言う、有名なフレーズがあるんです。 だから、リンゴと力シス、これはね青森県種なんですよ。

佐々木

先生ね、結局、私が市長の時、何か良い種がないかと、種探しを一生懸命にやったんです。 それでね、その弘大のそれも一つの種、それが今、実ってきたわけだ。 私はね、一次産業、二次産業、三次産業はあるが、六次がないでしょうここ。 一、二、三を六次にしなければ・・・。 六次産業化をどうするかというのが一番のテーマなんです。 それは先生がおっしゃるとおりなんです。 そこでね、カシスは六次産業化、やっと今できつつあるんです。 もう一つはね、私はもう一つやったんだ、種見つけたんです。藍です。 これもね、弘大のね、農業生命科学の事務局にいた人がいまして、これがね、なんとしても青森ヒバとか裂織りとか、そういうのに興味を持って一人で一生懸命にやっていた。 それがね、ある時に畑に、奥さんが染物をやるというんで自分で家庭菜園をつくって藍草をつくった。 そうしたら、偶然でね、寒さのショックで、藍草が顔料に変わっていた。 僕はね、今度はうちの商工部の澤田君に「それではだめだ。 なんとか特許は取れたんだから、ちゃんと認証もらえ」と、金出してやればいいと取ったんです。 それをもとにして、今度はね、繊維メーカーの大手の製縫の会社が、誘致企業で。

細井

吉田さん?

佐々木

吉田、それが着目して、「ちょっとうちでやってみる」 と。 今度は、藍の染物やってね、藍染めやったんですよ。 企業組合つくって。 縫製メーカーだから、縫うのは簡単だから、それ今度やって、宇宙飛行士の山崎直子の着てたのそれだよ。 それがもとで今度は同好会できて、みんな藍で染物やるってグループがいっぱい出来ているんだ。 山崎直子が着た。 ものすごい殺菌力がある。 それでね展開したら、最近はすっとやるスプレーね。 あれ飛行機にも乗っているんですよ。 藍スプレーでやるとね、消毒になったり、それから台所でね、まな板の菌が出ないとか、商品化されているんです。

帆江

細井さん、それで、カシスも藍もそうですけど、財団でブランド認定というのを制度的にやってますよね。

細井

ああ、そうそう。 特産品ね。 さきほど話題になったので、この大農林水産祭、今年で9回目。 それぞれの地域での特産品を全国発信しようといぅことで、実行委員会をつくって、私、会長ですけど、昨日もその審査会をやったんですね。 今はね、4年目にしてもうすでに44品目、22事業所からそれぞれに推薦受けて、商工会、商工会議所から推薦いただいて、私どもの規定で審査会でもって合格すると、シールを貼って販売すると。 そういうお手伝いをしているんですよ。 で、今、現実には道の駅で浪岡をはじめ、今別、それから対岸の木古内にも置かせてもらってますし、津軽海峡フェリーのターミナルにも置かせてもらっている。 今度は東京まで進出のルートができておりましてね。

渡辺

いや素晴らしいことだ。 だから私はさっきから言っているのは、これからの問題で財団の課題だけど、観光とイベン卜はね、一つは季節変動をなくす、通年を通してどうしたらうまくやれるか。 それからね、地域別に、「いやぁ、青森と言えばねぶたしかイベントはないよ」というような、極端に言えばね、それが青森でなくて、この広い我々の地域の周辺、 まあ、商圏の100万人の人口を擁する各所でね、人を集めて感動と喜びを与えるイベン卜をあれして、かつまたそこで販売促進を図る、 そういう地域性と季節変動性を十分、細井君の方で勘案しながら、あとは中身はいろいろあるようだから、その都度、そこへ出展して、それで隆盛豊かな開催が出来るように運んでいくといいのでは。

細井

実はね、この経済エリアもどんどん拡大して、佐々木さんが現職時代に青函ツインシティ研究したでしょ。 で、去ったらもう完全に頓挫しちゃって動きが見えなくなったんですよ。 これじゃダメだというわけで私もね、対津軽海峡交流圏という事業を展開して、南北海道の知内町とか木古内と交流して、どんどんどんどん、 うちの商品も向こうで扱って、そういう専門のコーナーまで、今、青森から6社商品展示させてもらっているんですよ。最近はスポーツまでね、 知内町の町長さん、「ぜひ、青森山田高校の野球部、来てください、合宿に」と。そこまで交流してね。

佐々木

ずいぶん、知内に行ったんだよね。 ところがね、僕がやめたら、次の市長になったら、全部パアになっちゃった。 もったいないんだよね。 だけどね、そうやってやってくれているのは、大変ありがたい。 それで、結局、青函卜ンネルに新幹線が通ったでしょ。 僕がちょうど辞めた、新幹線が通った。 で、せっかくの青函ブランドだから、隠居しただけではダメだなと思って、それで、「青函文化経済研究所」をつくったんです。 情報、機関誌を出そうとやったんです。 青函ブランド化しようと。 情報発信しようというんでやったんです。 青函交流のね、年に4回しか出しませんけど。

渡辺

最近、こうやってやっているからね、この部分はうまくいった、この部分はダメだった、そういう各論的な部分をチェックして、次のイベントの参考にするというようなことも非常に大事になるね。

佐々木

それは大事ですよ。 だからね非常に残念なのはね、今、農福連携ということで、農業と福祉と一緒になって、国が大変奨励しているわけ。 青森でもね、例えば福祉では、幸畑にあるコロニー、そこにね、ハウス、ビニールハウス、全天候型のね、開発許可をもらっているんですよ。 そこにね、野菜工場をつくって、障がい者が作業をして、そこで年問通じて出荷できるようにしようと、計画はできたんです。 国の方でも、農福連携には補助金出すんですよ。 市町村も出す。 それに乗っけようというんでね。

帆江

農福連携は、青森山田学園でも蓬田村でやろうとしているんじゃないですか。 お年寄りが、もう農業出来ないと言って手放した土地を借りて、障がい者がそこに行く、子どもたちも学校から行く、で、できあがったものは学校給食に使うと。

佐々木

うん、幸畑コロニーもちゃんと計画して持ち上げて、陳情したのだが・・・。 ま、ともかく種はね、いっぱいあるんですよ。 それをだからいかに付加価値をつけて、産業化するか、そのことをやっぱりここでやってほしいよ。

帆江

細井さん、これからのことで、どうしてもひっかかってくると思うんですけど、さっき渡辺先生も話された観光、要するに財団は物流の所に深くコミットしているけど、これからの問題で特に青森が注目される、東北、青森が注目される観光です。 人の流れって、ものすごく大きい。 それにどう立ち向かい、どう利用していくかっていうのは、大きなことだと思うんですよ。

細井

産業振興財団ですから、経済活性化に少しでもお手伝いしたいと。 産業会館の全国大会、職員の研修の全国組織、はまなすも同じ組織で、どんどん誘致しているんです。 一泊二日、それが少しでも経済効果が青森にとってはあるんじゃないかということでお手伝いしているつもりですし、ま、市と商工会議所と三者でね、そんなことでいろいろお手伝いをしたいと。 地域の活性化のためにですね。 そういう思いはあります。

渡辺

商業のみに依存する国は、取引で収入がなくなると、農業や工業という物をつくる産業がないから、結局、つぶれる運命にあったということは歴史が証明しているわけです。 だから、それを参考にしろということではなくて、青森市も幸いなるかな、一次産業とか一・五次産業とかで、細井君が今やっているイベン卜で、例えば力シスなんかも日本一の生産量を誇っているわけですね。 そうでしょ。 それの特産品もつくったりしている。 その他、リンゴの加工を中心に、青森ならではの特産品は一次産業にいっぱいある。 これらの関連の産業をどのように知恵を絞って今後ですね、いわば一次産業、一・五次産業を細井君の財団の方で支援しながら、なおかつイベントとか観光を視野にして売っていくと。 それが財団の存在価値というものを、いやがうえにも高い存在にこれから位置づけていくと、そういう使命があると考えています。

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